『古事記』を読む

文學と逃げず左右思想を持ち込まずスピに走らず学問的蓄積を飛び越えず内在する論理を信じ通説の否定をためらわず

第1回 圧縮から解き放つ(天地初発から天之御中主神まで①)

[今回の内容]『古事記』の冒頭部分についての第一回めです。天之御中主神(あめのみなかぬしの神)の誕生までを、現代語訳し解題していきます。

 

 [原文1-0]

天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神

 

[書き下し1-0]

天地(あめつち)初めて発(あら)はしし時*1高天原(たかあまのはら)に成りませる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。

 

[現代語訳1-0]

世界の始原。天と地とがあった。

 

天は、天として自らを意識し、地は、地として自らを意識し、世界は世界となった。

時が、動き出した。

 

広大な天に、高天原(たかあまのはら)という場所があった。

 

そこに、最初の神が誕生した。

 

名を、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)と言った。

 

この神の誕生によって、世界に中心という概念があらわれ、この神が生まれたところが、天の中心となった。

高天原(たかあまのはら)は天の中心の場所となった。

 

この最初の神は、生まれながらに天の中心の神である。

そして、天の中心が天の中心としてあるためには、天以外に天の中心を見るものがなければならない。

この最初の神の名は、やがて地に生まれるヒトの誕生の予祝である。

 

また、天の中心の神であるからには、その周りに縁ある神々が生まれてこなければならない。一柱では中心とならない。

この最初の神の名は、やがて生まれる高天原(たかあまのはら)の神々の誕生の予祝である。

 

高天原(たかあまのはら)が天の中心に位置づけられたからには、そこに生まれる神々は、それぞれが天の中心の神々である。高天原(たかあまのはら)は、天の中心だからである。

 

高天原(たかあまのはら)に多くの天の中心の神々が生まれた後にも、この最初の神は、その中心の神である。名を、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)と言うからである。

この最初の神の名は、天の中心である高天原(たかあまのはら)と高天原(たかあまのはら)の中心を同時に見る者が、やがて生まれいずることの予祝である。

 

 

[解題1-1]

■圧縮された冒頭

 『古事記』の冒頭は、もの凄く情報が圧縮されて書かれています。ここで言う冒頭とは、「天地初発」から伊耶那岐神(いざなぎの神)・伊耶那美神(いざなみの神)の誕生までの部分を指します。

 伊耶那岐神(いざなぎの神)・伊耶那美神(いざなみの神)の有名な国生みのエピソードは、この冒頭部分に続けて展開されます。

 『古事記』には、この国生みの他にも「因幡の白ウサギ」や「八岐大蛇退治」など有名なエピソードがたくさん出てくるのですが、それらが書かれている冒頭部分を除く本文と、冒頭部分とは明らかに文体が異なっています。冒頭部分は非常にコンパクトなのです。

 冒頭部分には、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)から伊耶那岐神(いざなぎの神)・伊耶那美神(いざなみの神)まで全部で十五柱*2の神々が登場するのですが、それらがたった233文字(ただし音註等を除く)の中に詰め込まれているのです。

 『古事記』の冒頭の233文字について、神名を太字で表すと次のようになります。マルで囲んだ数字は、書き下した時の一文です。

 

①天地初発之時於高天原成神名天之御中主神
②次高御産巣日神
③次神産巣日神
④此三柱神者並独神成坐而隠身也
⑤次国稚如浮脂而久羅下那州多陀用弊流之時 如葦牙因萌騰之物而成神名宇摩志阿斯可備比古遅神
⑥次天之常立神
⑦此二柱神亦独神成坐而隠身也
上件五柱神者別天神
⑨次成神名国之常立神 
⑩次豊雲野神
⑪此二柱神亦独神成坐而隠身也
⑫次成神名宇比地邇神次妹須比智邇神 
⑬次角杙神次妹活杙神 
⑭次意富斗能地神妹大斗乃辨神 
⑮次於母陀流神次妹阿夜訶志古泥神 
⑯次伊耶那岐神次妹伊耶那美神 
⑰上件自国之常立神以下伊耶那美神以前并称神世七代

 

 神名は102文字で、残りは233-102=131文字です。十五柱の神々については、言葉を尽くして書かれているわけではありません。ですが、これらの神々は、時や属性によってきめ細かくカテゴライズされており、131文字にはほとんどそれしか書かれていません。

 つまり、『古事記』冒頭の神々は、時や属性によって能弁に語られているのです。書き下し文を現代語に直していくことは、233文字に圧縮された記述から、時や属性を手がかりに一柱づつ神々を解き放っていく作業に他ありません。

 そして、それはロゴス(内在する論理)のみを手がかりにする必要があります。行間をイマジネーションで埋めてしまったら、それは『古事記』の現代語訳ではなく、『古事記』の二次創作になってしまうからです*3

 

■「天地初発」のオリジナリティ

 『日本書紀』の「天地開闢(かいびゃく)」にしろ『旧約聖書』の「天地創造」にせよ、日本人に馴染みの深い世界の創世神話は、すべて天と地が始まりにあります。

 今でこそ我々は知識として、天は宇宙空間であり、地はそこに浮かぶ球形の物体であることを知っているので、天と地とが二元論的に対比されることに違和感を感じますが、高いビルの無い山も海も遠い田舎の平地から地平線を眺めると、空と陸とは地平線を対象に面が向き合っているように見えます。

 また、もの凄く空気が綺麗な地方のよく晴れた日の夜に、空の無数の星に目をやると、上下の感覚がなくなって空に落ちていくような気がして足がすくんでしまいます。昔の人にとって、天は地と同じくらい実感を伴った隣接領域だったのだと思います。

 「天地開闢(かいびゃく)」は、渾沌から天地が分かれたと説き、「天地創造」は、全知全能の神が天地を創造したと説きますが、『古事記』の「天地初発」は、天地以前の存在を認めません。

 世界の最初には、天と地とがあったと説くのです。天と地には創造者はおらず(「天地創造」との相違)、内在する論理もありません(「天地開闢(かいびゃく)」は陰陽の考え方を内在する論理として天と地とが分かれていきます)。したがって、必然的に天と地との意志が前提となります。

 そして、『古事記』の始まりは「時」の始まりでもあります。書き出しは「天地初発の(之)時」だからです。物質あるいは概念としての「天」と「地」は、始原以前にも存在していたかもしれない。しかしそれに意味は無い。「天」と「地」とが意志を持ったとき「天」と「地」とは「天」と「地」となった。そして時が動き出したというのが『古事記』の描く世界の始原です。

 

古事記』の冒頭の解釈には学者の間でも諸説あり、本稿の「現代語訳」と「解題」も一般に流布している説や場合によっては定説とも異なった解釈となっている場合があります。その場合は、なぜ異なる解釈となるのかについて「註解」を付します。「註解」は極力他の研究者の学説を踏まえた論考としていますので、ぜひ次回以降の「註解」にお進み下さい。

 

*1:「発」をどう訓むかについては諸説あります。これについては後の回で述します。

*2:神々を数える単位は「柱(はしら)」です。

*3:斎藤英喜『異貌の古事記』(二〇一四年、青土社)には、本居宣長から折口信夫まで、『古事記』解釈の歴史は二次創作の歴史だったことが分かりやすく書かれています。