『古事記』を読む

文學と逃げず左右思想を持ち込まずスピに走らず学問的蓄積を飛び越えず内在する論理を信じ通説の否定をためらわず

第11回 予祝する天之御中主神(天地初発から天之御中主神まで⑪)

[今回の内容]『古事記』にはヒトの誕生が書かれていないと言われることがありますが、天之御中主神の神名は、ヒトの誕生を約束するものです。つまり予祝になっています。『古事記』の一番最初の神は、誕生した時からヒトとともにあるのです。

 

 [原文1-0](再掲)

天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神

 

[書き下し1-0](再掲)

天地(あめつち)初めて発(あら)はしし時、 高天原(たかあまのはら)に成りませる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。

 

[現代語訳1-0](再掲)

世界の始原。天と地とがあった。

 

天は、天として自らを意識し、地は、地として自らを意識し、世界は世界となった。

時が、動き出した。

 

広大な天に、高天原(たかあまのはら)という場所があった。

 

そこに、最初の神が誕生した。

 

名を、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)と言った。

 

この神の誕生によって、世界に中心という概念があらわれ、この神が生まれたところが、天の中心となった。

高天原(たかあまのはら)は天の中心の場所となった。

 

この最初の神は、生まれながらに天の中心の神である。

そして、天の中心が天の中心としてあるためには、天以外に天の中心を見るものがなければならない。

この最初の神の名は、やがて地に生まれるヒトの誕生の予祝である。

 

また、天の中心の神であるからには、その周りに縁ある神々が生まれてこなければならない。一柱では中心とならない。

この最初の神の名は、やがて生まれる高天原(たかあまのはら)の神々の誕生の予祝である。

 

高天原(たかあまのはら)が天の中心に位置づけられたからには、そこに生まれる神々は、それぞれが天の中心の神々である。高天原(たかあまのはら)は、天の中心だからである。

 

高天原(たかあまのはら)に多くの天の中心の神々が生まれた後にも、この最初の神は、その中心の神である。名を、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)と言うからである。

この最初の神の名は、天の中心である高天原(たかあまのはら)と高天原(たかあまのはら)の中心を同時に見る者が、やがて生まれいずることの予祝である。

 

 以下は、[解題1-1]からの続きです。[解題1-1]はこちら↓

第1回 圧縮から解き放つ(天地初発から天之御中主神まで①) - 『古事記』を読む

 

[解題1-2]

■神の不在からはじまる『古事記

 『古事記』の最初の一文は、「天地はじめてあらはしし時、高天原に成れる神の名は天之御中主神」です。これを現代語に直訳すると、「天地が初めて天地であることをあらわした時、高天原に誕生した神の名は天之御中主神(あめのみなかぬしの神)である」となります。

 天と地だけが始動し、それ以外の構成要素は世界にその存在を明らかにしていない、そんな時に高天原に最初の神があらわれたのです。

 この一文での登場者は、天と地と天之御中主神(あめのみなかぬしの神)の3つですが、登場の様子は同じではありません。天と地は自ら意志を持ってその存在をあらはしたのですが、神は「成」れり、つまり生成しています。

 神が「成」るという言葉には「成」る以前の状態が暗示されています。「天地はじめてあらはしし時」で表されるひとつの「時」で括れる時間の幅は、人間が計測する物理的な時間ではどのくらいの長さに相当するのかはわかりませんが、この「天地はじめてあらはしし時」の時間の幅の中には、当初、神の不在状態があったのです。

 もちろん、この神の不在状態の時間が極小であれば、神の不在の時間は無かったことになりますが(そして、別途明らかにする予定ですが、その可能性は高いといえます)、神が在ったではなく成ったとして神不在のイメージを神の存在と不可分なものとしているところに『古事記』の特徴があると思います。「はじめに神は天と地とを創造された。」と書き始められている『聖書』とは対照的だと言えるでしょう。

 また、『古事記』の最初の神は、何の因果も関係なく、ただ生まれている点で、「天地初発」は、陰陽の因果から天地が生成し、その中に神が生まれたと説く『日本書紀』の「天地開闢(かいびゃく)」ともまったく発想の異なる天地創生譚だと言えます。

 

天之御中主神(あめのみなかぬしの神)の意義

 さて、もう一度『古事記』の最初の一文「天地はじめてあらはしし時、高天原に成れる神の名は天之御中主神」を振り返ります。

 天地が初めて天地であることをあらわした後、いよいよ最初の神である天之御中主神(あめのみなかぬしの神)が誕生します。ここで注意したいのは、「神の名は」という表記です。「最初に誕生した神は天之御中主神(あめのみなかぬしの神)だった」と言うのではなく、「最初に誕生した神の名前は天之御中主神(あめのみなかぬしの神)だった」と言っています。

 このことは、存在する神とその神名とは別であること、しかしながら神名によってその神を理解することができること、の二点を示しています。最初の神の記述ですから、以降の神の理解の指針を兼ねた表記でもあると言えるでしょう。

 我々は、普段他人を名前で呼びます。通常は名前とその名前の人物を区別しませんが、考えてみれば名づけられる前はその人はただその人なのであり、名前を持ってからもあだ名で呼ばれることによって、本名とは別の個性でその人が表されることがあります。『古事記』の神も同じです。例えば、高御産巣日神(たかみむすひの神)は高木神(たかぎの神)とも呼ばれるようになります。同じ神の別の側面が名前によって示されているのです。

 天之御中主神(あめのみなかぬしの神)は、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)としか呼ばれませんが、「最初に誕生した神は」ではなく「最初に誕生した神の名は」とすることで、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)が、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)以上の存在でありながらも、この神の意義が、天の御中であることに集約されていることを意味しています。

 天之御中主神(あめのみなかぬしの神)の誕生以前に中心についての記述はありません。天之御中主神(あめのみなかぬしの神)の誕生以前には、天には中心がなかったのです。

 つまり、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)が天の中心にいるのではなく、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)がいるところが天の中心になるのです。

 天之御中主神(あめのみなかぬしの神)という神名は、「天の聖なる中心であるところの神」という意味ですが、「偉大なる天の中心の神」ではないことも重要です。天における中心であることそのことが偉大なのであって、中心にいるから偉大なのではなく(世俗的な権力・権威を否定)、偉大な神が中心にいるのでもないのです(一神教的な絶対神の否定)。

 

 

■予祝としての天之御中主神(あめのみなかぬしの神)

 天之御中主神(あめのみなかぬしの神)が中心をあらわす神であるということは、予祝すなわちやがて現れるものの約束の意味を持ちます。

 中心は、観察者がいなければ中心として認識されません。観察者なくしては中心は中心として存在できません。天之御中主神(あめのみなかぬしの神)が誕生し、天に中心ができたことが、次なる必然を生んでいるのです。

 天空に、星々の凝集する一点があったとしても、不動の一点があったとしても、ひときわ輝く恒星があったとしても、観察者がいなければ、それは単にその状態があるに過ぎません。つまり、中心の誕生とは、観察者つまり天の外部からの目線の必然が誕生したということと同義であり、それこそが天之御中主神(あめのみなかぬしの神)の重要性だとも言えます。そして、この重要性はヒトの立場からの重要性です。

 『古事記』にはヒトの誕生が書かれていないと言われることがありますが、天之御中主神の神名は、ヒトの誕生を約束するものです。つまり予祝になっています。『古事記』の一番最初の神は、誕生とともにヒトとともにあるのです。

 ここで、ヒトは未だ存在せぬ必然、いわば不在の在としてあるのですが、これと同じ構造が『聖書』にも見られます。

 『聖書』の有名な惹句に「初めにことばありき」があります。新共同訳聖書では、「初めに言(ことば)があった。言は神とともにあった。言は神であった。この言は初めに神とともにあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。」(ヨハネによる福音書1.1-4)という文章で記されています。

 『聖書』の神は、人を創造する前に「人の光」とともにあったのだと書かれています。不在の在です。「言」を「視線」に置き換えれば、「ヨハネによる福音書1.1-4」は、高天原の部分を除き「天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神」の現代語訳だと言っていいほどそっくりです。意味がカタチに先行しているのです。天之御中主神(あめのみなかぬしの神)の名が示す、ヒトがいないのに視線があったということは、「初めにことばありき」とまったくの同一構造になっています。

 また、『旧約聖書』の記述では、アダムとイブは、禁断の木の実を食べることによって「視線」を獲得します。創世記第2章には、「女がその木を見ると、それは食べるによく、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、二人の目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。」(創世記3.6-7)とあります。

 禁断の木の実のなる樹はエデンの園の中心にあります。『聖書』でも『古事記』でも「中心」と「視線」はセットなのです。

 

本稿の「現代語訳」と「解題」は、一般に流布している説や、場合によっては定説とも異なった解釈となっている場合があります。その場合は、なぜ異なる解釈となるのかについて「註解」を付します。「註解」は極力他の研究者の学説を踏まえた論考としていますので、ぜひ次回からの「註解」をご参考下さい。