『古事記』を読む

文學と逃げず左右思想を持ち込まずスピに走らず学問的蓄積を飛び越えず内在する論理を信じ通説の否定をためらわず

第13回 天之御中主神に関する3つの誤解(下)(天地初発から天之御中主神まで⑬)

[今回の内容]天之御中主神(あめのみなかぬしの神)には、根強い3つの誤解があります。天の中心という特定の場所にいる神であるという誤解と、中心という抽象概念を神としたものであるという誤解と、宇宙の創造神であり主宰神であるという誤解です。(全2回の2)

 [原文1-2](再掲)

高天原成神名、天之御中主神

 

[書き下し1-2](再掲)

高天原(たかあまのはら)に成りませる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。

 

[註解1-2-3]は前回です。こちら↓

第12回 天之御中主神に関する3つの誤解(上)(天地初発から天之御中主神まで⑫) - 『古事記』を読む

 

[註解1-2-4]3つめの誤解を解く:天之御中主神は、宇宙の創造神でも天の主宰神でもない 

 天之御中主神(あめのみなかぬしの神)を宇宙の創造神だったり天の主宰神だとする誤解も根深いものがあります。この誤解のもとをたどれば、江戸時代の国学者である平田篤胤の思想に行きつきます。

 平田篤胤は、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)を「大元高祖神」すなわち宇宙を創造した神であり宇宙の主宰神であるとしましたが、これは篤胤が当時禁止されていたキリスト教を研究し、そこから天之御中主神(あめのみなかぬしの神)をキリスト教の神になぞらえて宇宙を創造した最高神であると解釈していたことを、斎藤英喜氏*1は『異貌の古事記』(青土社、二〇一四年)第二章で詳しく論じています。

 『古事記』をきちんと読めば、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)が天地を創造したのではなく、天地初発の時に天之御中主神(あめのみなかぬしの神)が誕生したのであり、創造の力は天之御中主神(あめのみなかぬしの神)に続いて誕生する2柱の産巣日神(むすひの神)に由来するため、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)が宇宙の創造神でないことは明らかです。

 また、『古事記』には、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)が宇宙を主宰する記述もまったくありません。宇宙の主宰神ではあるが、『古事記』にはそのことは書かれていないのだと主張することは、もはや『古事記』の読解ではありませんし、『古事記』の価値を貶める行為です。

 寺田恵子氏は、論文「天之御中主神の神名をめぐって」(『古事記年報』1983年)で、日本の上代の文献には天の中央に価値を置く記述は皆無であり、天の中心に最高神がいるという思想は中国大陸のものであることを明らかにしています。

 そもそも本居宣長は漢意(からごころ)を排すとして、『古事記』の解釈に中華思想を以てすることを批判しましたが、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)を解釈するのに、漢意(からごころ)どころかキリスト教の神のキャラクターまでもあてはめてしまうことはあってはなりません。

 天之御中主神(あめのみなかぬしの神)を宇宙の創造神あるいは主宰神とする解釈は、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)の本来の神聖性を損ね、『古事記』の世界観をも損なう暴挙です。

 このように、根拠が全くないにもかかわらず、今も天之御中主神(あめのみなかぬしの神)を宇宙の創造神だったり天の主宰神だとする解釈が根絶されていないのは、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)の本来の性格が一部の学者を除き知られていないことと、その価値が理解されていないことが原因と思われます。

 そして、その価値が支配者であった天皇に秘せられた智慧であったことも、その智慧の一般民衆にとってのわかりにくさ馴染みにくさとも相まって、単純でわかりやすい宇宙ナンバーワンの神のイメージが置き換わらない理由であるのでしょう。

 そこには、キリスト教のGODに、本来はまったく別の概念である多神教の「神」と同じ「神」の字をあてて翻訳してしまったという史実も起因しているものと思われます。

 「神」は、「縄文以来の様々な神霊観の総称」であるがゆえに「縄文以来の様々な神霊観の総」合体が考え出され、その玉座キリスト教の神(GOD)が座りました。

 もともとそのような最強の神は日本には存在せず、同様の概念であり信仰対象は仏教から大日如来としてもたらされました。仏として最強の存在の概念は成立していたのですが、それには仏の漢字があてられていたために、神々とは別の概念だと思われていたのです。

 GODは最初から「神」ではありませんでした。聖書の日本語訳にあたっては、イギリス人宣教師が「上帝」を、アメリカ人宣教師が「神」を訳語にあてることを主張して相譲らず、明治の開国がアメリカの黒船によって先導され、アメリカ人宣教師がキリスト教の布教を主導したためにGOD=神が定着した*2という経緯があります。

 また、明治政府が進めた神仏分離は、神と仏とを対象な存在とすることを要請しました。習合していた妙見菩薩北極星)=天之御中主神(あめのみなかぬしの神)が、分離されることによって、それまで存在しなかった北極星の神=天之御中主神(あめのみなかぬしの神)が誕生させてしまったのと同じ思考が、大日如来の対象物である神を要請してしまったのでしょう。最強の神の座が、空席として突如現れたのです。

 この真新しい最強の神の座にGODを見る者はキリスト者となり、旧来の神々の信仰を捨てきれない者は、空席に欠落感を感じ欠落を埋める信仰の対象を求めるようになりました。本来の天之御中主神(あめのみなかぬしの神)の価値は、わかりやすい最強の座を必要としない高い価値を持つのですが、それを知らないか理解できないために欠落感が生じてしまったのです。

 仏教の信仰心の強い地方では、信仰対象としての最強の存在は、大日如来阿弥陀仏法華経ですから欠落感はありません。天之御中主神(あめのみなかぬしの神)を宇宙の創造神だったり天の主宰神だとする誤解が根強いのは、仏よりも神を強く信仰対象とする人々です。

 仏教信仰より日本古来の神々を求める人々の方がかえって『古事記』とは無縁の最強の信仰対象を求めるようになってしまった矛盾と悲劇がここにあります。

  また、最強の神の座を実在する神の座として国家神道が形成され、日本中の神々がランク付けされ組織化されました。

 すでに秘められていた天之御中主神(あめのみなかぬしの神)は、「記紀神話」によって二重に隠蔽され、神仏分離とGODを「神」としたことで、まったく別の概念を持った神が天之御中主神(あめのみなかぬしの神)とされてしまったのです。

 ですが、「高天原(たかあまのはら)に成りませる神は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」とは書かれていないことを見れば、『古事記』の作者は、そのような未来の危険性を見通していたのかもしれません。「高天原(たかあまのはら)に成りませる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」とあることを正確に読めば、他の概念を持った神を天之御中主神(あめのみなかぬしの神)とすることは避けられるからです。『古事記』は『古事記』に拠ってのみ読まれなければならないのです。