『古事記』を読む

文學と逃げず左右思想を持ち込まずスピに走らず学問的蓄積を飛び越えず内在する論理を信じ通説の否定をためらわず

番外1 スサノオはなぜ母を思って泣いたのか

古事記』では、スサノオは父のイザナギから生まれます。それなのにスサノオは、母のいる根の堅州(ねのかたす)国に行きたいといって父を激怒させます。これまで、このエピソードは、『古事記』の瑕疵を示すものだとされてきました。母がいないのに母の国に行きたいと泣くのは矛盾ではないかというのがその理由です。

 

この「矛盾」に対してはおおむね二つの解釈があるようです。

ひとつは、『日本書紀』ではスサノオイザナギイザナミとの間の子ですから、そもそも『古事記』は『日本書紀』を参照して読むようにできているのだというもの。

 

もうひとつは、もともとは別ものだった神話を無理やり一つのエピソードにした痕跡だというものです。

 

ただ、私はどちらの解説も無理があるように思います。前者に対しては、『日本書紀』は『古事記』より後年に完成していますので参照は不可能だと思いますし、仮に『日本書紀』に取り入れられた神話は『古事記』編纂時代にも伝わっていたからそれを参照することは可能だったはずだとしてみても、今度は異説を正すことを目的とした『古事記』の編纂動機と合わなくなってしまいます。

 

後者に対しては、天皇に上梓されるほどの書物である『古事記』の編纂がそこまで杜撰だった理由が分かりません。

 

ということは、矛盾しないものとして解釈すべきエピソードなのではないでしょうか。

 

実際、イザナギからスサノオに視座(話し手の立場)が移ったと解釈すれば、話は矛盾なくつながります。一般的に言って、まだ子どものうちの息子にとって、父の込み入った事情なんて知ったこっちゃないからです。

 

スサノオは母の無い子です。ものごころが付くようになれば、自分に母がいない理由を知りたくなるはずです。

 

スサノオ(以下ス)「父ちゃん、僕にはどうして母ちゃんがいないの?」

 

イザナギ(以下イ)「お前は、父さんだけの子なんだよ。お前だけじゃない、姉さんたちもみんなそうだ。」

 

ス「どういうこと?」

 

イ「ある日、父さんが禊ぎを終えて顔を洗ったとき、左目を洗ったときにアマテラスが、右目を洗ったときにツクヨミが、鼻を洗ったときにお前が生まれてきたんだよ。」

 

ス「何言ってんの?わけわかんないよ。(不信感が芽生える)」

 

イ「いや、事実だから。」

 

ス「そんなふうに生まれてきた神さまなんて聞いたことないよ。みんなには父さんも母さんもいるよ。」

 

イ「みんなって誰だ。俺が十拳の剣で迦具土神を斬ったら、その血から石祈神や根祈神や石筒之男神とかがたくさんたくさん生まれてきた。母さんから生まれてこない神さまなんて普通なんだよ。」

 

ス「そう…なの?」

 

イ「そうだ。だから心配するな。」

 

ス「うん、わかったよ。でも、父ちゃんはなぜ、迦具土神を斬ったの?」

 

イ「それは…。」

 

ス「どうして?父ちゃんは神さまを殺す神さまなの?」

 

イ「いや、違う。迦具土が生まれてきたせいで母さんが死ぬことになったからな。許せなかったんだよ。」

 

ス「お母さんいたの?死んだの?」

 

イ「お前の母さんじゃないけどな。結婚してた人はいたよ。イザナミと言う名前で仲は良かったよ。それで、死んだあと追っかけてってな。死んだ神がいる黄泉の国に会いに行ったけど、遅すぎてもう昔の姿じゃなかったんだ。だから帰ってきた。イザナミはなぜか怒ってな、この国の人間1000人殺すなんて言ってな。追っ手なんてよこしてな、追っかけてきた。追っ手がこの国に来たら大変だから、黄泉の国との道は塞いできた。黄泉の国に行って私は穢れてしまったから小戸の阿波岐原で禊ぎをして、すっかり綺麗になったから、顔を洗って、そしたらお前たちが生まれてきたんだ。だから死んだイザナミはお前の母さんじゃないんだよ。」

 

ス「なんだよ父ちゃんそれ。母ちゃんいたんじゃないかよ。なんで連れて帰ってこなかったんだよ?変わったって父ちゃんの態度が変わったんじゃないか。母ちゃんの姿が変わったって母ちゃんは母ちゃんだろ。僕がその国に行って母ちゃんに会ってくる。」

 

イ「ばかやろう。お前はイザナミが死んだあとの息子だから、イザナミはお前を産んでない。お前の母ちゃんじゃないんだよ。」

 

ス「そんなの父ちゃんの理屈だろ。黄泉の国で会った母さんはどんなだったのか教えてよ?」

 

イ「うるさい。お前が知る必要は無い。」

 

ス「なんでだよ!父ちゃんは母ちゃんに会ったんだろ、僕も行って会いたいよ。」

 

みたいな会話があったんだろうなと思うわけです。

 

考えてみれば、イザナキが体験した黄泉の国での恐ろしい話は、父にとっては生々しいリアルな思い出でも、息子にとっては共感出来ないただの伝聞にすぎません。

リアルに語ろうとすれば、イザナミの腐乱死体の様子やイザナミがよこした追っ手の様子も話さなければなりません。しかしそれは父親が愛する息子に話せる話ではありません。かくして、親のリアルは親の子への愛情のゆえに、親のリアルに留まります。

 

スサノオに限らず、自分という生命の誕生の瞬間、親の接合の瞬間に立ち会うことのできる神や人は皆無です。自分が誰と誰の子だかは、原理的に自分では知ることはできない。信じるしかないんです。DNA鑑定だって21世紀の現在ですら子どもができるものではないし。母ちゃんと別れた後に顔を洗ったときに生まれたのがお前だよなんて言われて、はいそうですかと納得できる子どもはいないでしょう。ましてやスサノオは男の子で末っ子です。親父の大人の事情なんて受け入れられない方が普通です。

 

この神話が神話として語られた時代には、戸籍もなければ避妊法も無い。母の無い子は現在とは比べものにならないほど多かったでしょう。

また、『古事記』が読者として想定しているだろう天皇家や豪族たちには、家督相続という理由で母の無い子がいたと思われます。当時は権勢を誇る男は一夫多妻であり、我が子に家督を嗣がせようとする妻が別の妻の子殺しを謀ることはめずらしいことではなかったからです。

 

そして、母の無い子は、特に男の子は、実母の代わりを求めます。乳母や姉やおばさんや親切にしてくれる年上の女性を母として慕います。慕うことを許す女性に出会うまで、母代わりを求める心理は変わらず、その女性に裏切られるまではその女性が心理的な母なのです。母がいないのに母の国に行きたいと泣くスサノオを矛盾と捉えるのは、両親の愛に育まれた恵まれた現代の大人の理屈だと思うのです。