『古事記』を読む

文學と逃げず左右思想を持ち込まずスピに走らず学問的蓄積を飛び越えず内在する論理を信じ通説の否定をためらわず

第15回 高天原を理解する2つの鍵(上)(天地初発から天之御中主神まで⑮)

[今回の内容]高天原は、天之御中主神とセットで語られることで『古事記』のコスモロジーを豊かに定義づけています。そして、高天原をさらに理解するために、2つの鍵が存在します。まず、1つめは、それが『日本書紀』本文には採用されていないことです。(全2回の1)

 

 [原文1-2](再掲)

高天原成神名、天之御中主神

 

[書き下し1-2](再掲)

高天原(たかあまのはら)に成りませる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。

 

今回は、前回( 第14回 高天原がひらく『古事記』のコスモロジー(天地初発から天之御中主神まで⑭) - 『古事記』を読む)の「解題」に対する註解です。高天原を題材にした2回目ですが、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)を題材にした15回目でもあります。その意味では、今回の註解は[註解1-2-4]の続きです。

 

[註解1-2-4]はこちら↓

第13回 天之御中主神に関する3つの誤解(下)(天地初発から天之御中主神まで⑬) - 『古事記』を読む

 

[註解1-2-5]高天原を理解するひとつめの鍵『日本書紀』本文からの欠落

 高天原の特徴は3つあります。1つは、それが『日本書紀』本文には採用されていないこと。2つは、天之御中主神とセットで語られること。3つは、イザナギイザナミの誕生までの舞台であることです。

 宇宙の始原の描写として高天原が書かれている文献は、2つしかありません。一つは『古事記』であり、もう一つは『日本書紀』巻第一神代上第一段一書に曰くの第四(以下、第四の一書と略す)です。『日本書紀』本文には、高天原は採用されていません。

 高天原は、本文に採用されていないながらも一書に曰くとして外伝的に書かれていることから、それが多くの豪族に共通的に伝承されていたもののではなく、特定の一族にのみ伝承されていたのだと思われます。

 そして、天武天皇勅撰の『古事記』には高天原が冒頭に登場することから、この特定の一族とは天皇家に他ありません。

 同じ天武天皇勅撰の公式書物である『日本書紀』本文には採用されず、一書に曰くとその存在の痕跡のみが記されているのは、『日本書紀』本文には採用しにくい事情があったのだと思います。

 その事情は、『日本書紀』が漢籍由来の「天地開闢」神話を世界創生譚に採用したことに起因するであろうことが、その『日本書紀』の第四の一書の記述から読み取ることができます。

 その記述は次のようなものです。「天地初めて判るるときに、始めてともに生づる神ます。国常立尊(くにのとこたちのみこと)と号す。次に国狭槌尊(くにのさづちのみこと)。又曰く、高天原にあれます神の名を、天之御中主尊と曰す。次に高皇産霊尊。次に神皇産霊尊。皇産霊、これをばミムスヒと伝ふ。」(天地が始めて分かれてできた時に、天地とともに生じた神があった。国常立尊という。次に、国狭槌尊が生じた。それだけではなくさらに伝えられるところによれば、高天原に生まれた神の名を天之御中主尊という。次に、高皇産霊尊が生じた。次に、神皇産霊尊が生じた。皇産霊はミムスヒと発音する。)

 まず、天地開闢の時に天地と共に最初の神である国常立尊(くにのとこたちのみこと)が生じ、次に国狭槌尊(くにのさづちのみこと)が生じたことが記されます。最初の神が国常立尊(くにのとこたちのみこと)で、二番目に生じた神が国狭槌尊(くにのさづちのみこと)だというのは『日本書紀』本文と同様です。

 本文との違いは、本文が天地ができたあとにその中に神が生じたとしているのに対して、この第四の一書では、神は天地とともに生じたとされている点です。

 本文では、国狭槌尊(くにのさづちのみこと)の次に豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)が誕生し、この三柱の神々を純粋な陽の気から生じた始原の神として、以降に誕生する神々と区別しています。

 第四の一書では、豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)は誕生しません。かわりに、「又曰く、」として高天原に天之御中主尊と高皇産霊尊神皇産霊尊が次々に生じたことが書かれています。

 この「又曰く、」は奇妙です。『日本書紀』は純粋漢文で書かれており、漢文での「又」は、その上=againの意味で、「亦(また=also)」とは区別されます。国常立尊(くにのとこたちのみこと)が生じ、次に国狭槌尊(くにのさづちのみこと)が生じ、その次に「また=also」天之御中主尊が生じたのではないのです。

 「又」は、高天原以降の文章全体にかかります。天地開闢の時に天地と共に最初の神である国常立尊(くにのとこたちのみこと)が生じ、次に国狭槌尊(くにのさづちのみこと)が生じました。「それだけではなくその上さらに(=again)伝えられるところによれば、」高天原に天之御中主尊と高皇産霊尊神皇産霊尊が次々に生じたのです。

 「又=again」は、天之御中主尊が誕生したことではなく、「曰く」にかかっています。であれば、高天原以降の一文は、第五の一書として第四の一書と分離するのが自然です。

 そうなっていないことから論理的に導かれる結論は、「天地開闢の時に天地と共に」が共通するというものです。第四の一書に書かれていることは、天地開闢の時に天地と共に最初の神である国常立尊(くにのとこたちのみこと)が生じ、次に国狭槌尊(くにのさづちのみこと)が生じたが、聞くところによれば、その上さらに、天地開闢の時に天地と共に最初の神として高天原に天之御中主尊と高皇産霊尊神皇産霊尊が次々に誕生したということなのです。

 つまり、第四の一書が示しているのは、『日本書紀』本文の創生神話と『古事記』の創世神話とはパラレルワールドだということです。これはさすがに本文に採用することはできません。

 だからといって、高天原神話だけを一書として独立させれば、どうしても目立ってしまいます。まったくなかったことにはできないが、できれば触れたくないために、四番目の一書に本文の神話に隠れるかたちで高天原神話を記したのだと思われます。

 それほどまでに、高天原神話は、天地開闢神話と融合不可能な独立した世界創生神話であり、『日本書紀』が中国に受け入れられることを第一に彼の地の創生神話を漢籍から引用した結果、高天原神話は、『日本書紀』では埋もれた(あるいは埋められた)神話となってしまったのです。