『古事記』を読む

文學と逃げず左右思想を持ち込まずスピに走らず学問的蓄積を飛び越えず内在する論理を信じ通説の否定をためらわず

第14回 高天原がひらく『古事記』のコスモロジー(天地初発から天之御中主神まで⑭)

[今回の内容]『古事記』は、『日本書紀』本文にはない「高天原」によって、その世界を展開させていきます。『古事記』オリジナルのコスモロジーは、「高天原」によって展開されていきます。

 

 [原文1-0](再掲)

天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神

 

[書き下し1-0](再掲)

天地(あめつち)初めて発(あら)はしし時、 高天原(たかあまのはら)に成りませる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。

 

[現代語訳1-0](再掲)

世界の始原。天と地とがあった。

 

天は、天として自らを意識し、地は、地として自らを意識し、世界は世界となった。

時が、動き出した。

 

広大な天に、高天原(たかあまのはら)という場所があった。

 

そこに、最初の神が誕生した。

 

名を、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)と言った。

 

この神の誕生によって、世界に中心という概念があらわれ、この神が生まれたところが、天の中心となった。

高天原(たかあまのはら)は天の中心の場所となった。

 

この最初の神は、生まれながらに天の中心の神である。

そして、天の中心が天の中心としてあるためには、天以外に天の中心を見るものがなければならない。

この最初の神の名は、やがて地に生まれるヒトの誕生の予祝である。

 

また、天の中心の神であるからには、その周りに縁ある神々が生まれてこなければならない。一柱では中心とならない。

この最初の神の名は、やがて生まれる高天原(たかあまのはら)の神々の誕生の予祝である。

 

高天原(たかあまのはら)が天の中心に位置づけられたからには、そこに生まれる神々は、それぞれが天の中心の神々である。高天原(たかあまのはら)は、天の中心だからである。

 

高天原(たかあまのはら)に多くの天の中心の神々が生まれた後にも、この最初の神は、その中心の神である。名を、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)と言うからである。

この最初の神の名は、天の中心である高天原(たかあまのはら)と高天原(たかあまのはら)の中心を同時に見る者が、やがて生まれいずることの予祝である。

 

 以下は、[解題1-2]からの続きです。[解題1-2]はこちら↓

第11回 予祝する天之御中主神(天地初発から天之御中主神まで⑪) - 『古事記』を読む

 

[解題1-3]

高天原がひらくコスモロジー

 天と地しかない天地初発の始原の世界には、天には中心が存在しません。そこに天之御中主神(あめのみなかぬしの神)があらわれ、天に中心がもたらされました。

 天之御中主神(あめのみなかぬしの神)は、ただ天に誕生したのではなく、高天原に誕生しました。このことは、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)の誕生によって、天にただあった高天原が、天の中心の意味をも持つようになったことを意味します。

 

 高天原はただ高天原としか書かれていません。「天」の字が入っていますから、高天原は地ではなく天にあることがわかりますが、高天原が天の中心であったということは『古事記』には書かれていません。

 高天原は、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)の誕生によって天の中心となった場所なのです。ただ存在としてあった高天原が、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)が誕生することによって、天の中心に再定義されたのです。

 

 こうして、『古事記』の天の中心は、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)でありながらも、高天原も天の中心の場としてあるという二重構造になりました。

 『日本書紀』本文には存在しない『古事記』のこの二重構造によって、単なる神名の羅列に見えた『古事記』の冒頭が、実はダイナミックなものであることが見えてきます。

 

■最初の神の名が天之御中主神であることの意義

 天之御中主神の誕生は、ヒトの誕生の約束でもありました*1。中心には、それを中心だと認識する存在が不可欠であるからです。

 また、天之御中主神の誕生は、続いて次々に生まれる高天原(たかあまのはら)の神々の誕生の約束でもあります。天の中心の神という名であるからには、その周りに縁ある神々が生まれてこなければならないからです。一柱では中心となりえません。

 中心は、中心ならざるものとの対比においてしか中心たりえません。巨大な銀河の厚みと縁(へり)、北極星とその周りを回る星々、天空にひときわ明るく輝くシリウスと控えめに輝くそれ以外の星々、すべてを照らす太陽と照らされる万物…。中心は、観察者に中心以外の存在と同時に認識されて初めて中心としての意味を持つのです。

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■図1.中心と観察者

 

 ただし、中心と観察者の関係だけで言えば、中心を認識する存在がヒトである必要はありません。天之御中主神(あめのみなかぬしの神)以降に誕生する神々が、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)を中心だと認識する存在であれば、わざわざヒトの誕生までが約束される必要はないのです。

 ところが、高天原があることによって、ヒトが誕生しなければならない理由が生じます。高天原に誕生する神々は、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)を中心として認識することができないからです。

 高天原は天の中心ですから、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)以降の神々は天の中心の神々として誕生します。中心である認識者が、自分以外を中心として認識すれば、その瞬間に、認識主体は中心以外となってしまいます。つまり、天の中心の神々は、自らが中心であるがゆえに、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)を中心として認識することはできないのです。

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■図2.交錯する神々の視点

 高天原という場の存在があるために、神々以外に天之御中主神(あめのみなかぬしの神)を中心として認識する天以外にある存在が必然となってくるのです。

 

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■図3.中心の二重構造

 もちろん、国つ神も、ここまでの条件を満たします。しかし、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)を神として認識するには、神以外の存在も必要です。それは、ヒトに他ありません。

 

 

高天原によって立ち上がる『古事記』の世界観
 中心は、ピラミッド的な上下の、あるいは曼陀羅的な放射状の秩序を創ってしまうものですが、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)は、ギリシャ神話のゼウスのように他の神々に君臨したりはしません。高天原に次々誕生する神々は、それゆえにそれぞれが天の中心の神々として誕生しますから、高天原に閉じて見れば、どの神々も等しく中心なのです。

 実際、『古事記』には、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)が他の神々に対して支配者として振る舞うような記述はでてきません。
 これは、構造的には、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)に先行してあった高天原が、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)の誕生によって天の中心の場とされたことで、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)とそれ以外という秩序が構築されずにすむ環境ができたからだと言えますが、この構造は『古事記』のメッセージであるはずです。なぜなら、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)と高天原という天の中心の二重構造は、『日本書記』本文には出てこない『古事記』のオリジナルだからです。


 『古事記』は、最初の神を天之御中主神(あめのみなかぬしの神)としました。それは、宇宙にたった独りであるときにも---ただ一柱の存在でありながらも同時に他の神々に比類される---孤独ではない神でした。その神は、未だ創造されぬヒトの視線とともに産まれました。そしてその神は、高天原に誕生することを選びました。それは、続く神々の誕生の約束となり、その神々が、それぞれ中心として活躍することを保証する祝福となりました。


 中心は君臨や支配とは違うのです。君臨や支配が中心と不可分であるような、トップが必然的に孤独となるような世界は創造されなかった。神も人も場も必然であり、それぞれがそれぞれを必要とし、なおかつそれぞれが中心でもある世界。それが、『古事記』のメッセージであり、「天地初発」が実現した、「天地創造」とも「天地開闢」とも全く異なる日本独自の世界像なのです。

 

本稿の「現代語訳」と「解題」は、一般に流布している説や場合によっては定説とも異なった解釈となっている場合があります。その場合は、なぜ異なる解釈となるのかについて「註解」を付します。「註解」は極力他の研究者の学説を踏まえた論考としていますので、ぜひ次回からの「註解」をご参考下さい。