『古事記』を読む

文學と逃げず左右思想を持ち込まずスピに走らず学問的蓄積を飛び越えず内在する論理を信じ通説の否定をためらわず

第5回 天地という存在(天地初発から天之御中主神まで⑤)

[今回の内容]天地が意志を持つ存在であるということについて、前回、『万葉集』を題材に、古代の人々の思考においては、決してとっぴな発想でないことをみてきました。しかしながら、天地に意志を認めるとして、それは神ではないのでしょうか。『古事記』の解釈において、神以外に意志を持つ自然物を想定することが可能なのか考察します。

 

[原文1-1](再掲)

天地初發之時、

 

[書き下し1-1](再掲)

天地(あめつち)初めて発(あら)はしし時、

 

[註解1-1-3]は前回です。こちら↓

第4回 天地の意志(天地初発から天之御中主神まで④) - 『古事記』を読む

 

[註解1-1-4]天地という存在

  天地が意志を持つとしたら、それは神ではないのか?と思われるかもしれません。

 『古事記』最初の神は、天之御中主神(あめのみなかぬしの神)ですから、それ以前の存在である天も地も神ではありません。

 

 しかしながら、『古事記』は、神に意識を独占させてはいないように思われます。神ではないが神と同等の存在があるからです。それは嶋(島)です

 

 国生みのシーンでは、伊耶那岐(いざなぎ)と伊耶那美(いざなみ)は結ばれ、子宝に恵まれます。最初の子 は「淡道の穂の狭分嶋(さわけのしま)」であり、その次の子は「伊豫(いよ)の二名嶋(ふたなのしま)」です。

 神の子は、普通に考えれば神であるはずですが、伊耶那岐(いざなぎ)と伊耶那美(いざなみ)が産んだ子どもは嶋なのです。そして、二神は、次々に嶋を生み終えたあと、今度は神々を生み始めます。嶋と神とは同じ親神から生まれた兄弟姉妹ですが、名称の上では、明確に区別がされています。

 

 ただし、内実は嶋と神とに明確な区別はありません。第二子である二名嶋(ふたなのしま)は、「此の嶋は身一つにして面四つあり。面ごとに名有り。ゆえ、伊豫国を愛比売といい、讃岐国を飯依比古といい、粟国を、大宜都比売といい、土佐国を建依別という」(この嶋は、身体がひとつで顔が四つあります。顔ごとに名前がついています。伊豫国(いよのくに)を愛比売(えひめ)といい、讃岐国(さぬきのくに)を飯依比古(いいよりひこ)といい、粟国(あわのくに)を、大宜都比売(おおげつひめ)といい、土佐国(とさのくに)を建依別(たけよりわけ)という)と描写されています。顔があって名前があるのですから、単なる陸地としての嶋が生まれたのではないことがわかります。

 

 神と嶋との違いは何でしょうか。

 大きさの違いではないはずです。嶋を生んだ伊耶那岐(いざなぎ)と伊耶那美(いざなみ)は嶋より大きな存在であると考えられます。小さいものが大きいものを生んだということも考えられますが、この場合は、大きさは本質ではなくなるということですから、やはり神と嶋とを区別する要素は大きさではないことになります。

 自在に動き回れるかどうかの違いでしょうか。これも、違います。違うと言えるエピソードがあるからです。

 嶋と神とを生み終えた伊耶那美(いざなみ)は、火の神を生んだことにより黄泉(よみ)の国に行くことになります。伊耶那岐(いざなぎ)は、伊耶那美(いざなみ)を追って黄泉(よみ)の国に行きますが、変わり果てた伊耶那美(いざなみ)の姿を見て逃げ帰ります。怒った伊耶那美(いざなみ)は追っ手を遣わしますが、伊耶那岐(いざなぎ)は生えていた桃を投げつけて追っ手を撃退します。うまく撃退できたので、伊耶那岐(いざなぎ)はこの桃に意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)と名づけ、葦原の中つ国を守るよう申しつけます。桃は神とされたのです。申しつけられたということは聞いて理解する能力つまり意志があるわけですが、桃は投げつけられただけで自ら飛んでいって追っ手にぶつかったわけではありません。このように、神かどうかは動けるかどうかとは無関係なのです。

 

 『古事記』では、嶋は国とも呼ばれます。国は神々が活躍するフィールド(舞台)です。おそらく、神々と同等の存在であっても、神々の舞台となる存在は神とは呼ばれないというのが『古事記』の命名ルールなのだと思われます。

 天地にはやがて神々が生まれます。神々の舞台となる天地は、意志がある存在であっても神ではないことに不思議はないのです。

 もちろん、論理的に可能だと言えるだけでは、天地が意志を持つ存在だという証明にはなりません。そうとしか言えないことを論証する必要が残ります。それには、「天地初発」をどう訓(よ)むかが関わってきます。

(つづく)