第9回 太安万侶の仕事(天地初発から天之御中主神まで⑨)
[今回の内容]『古事記』の「序文」に、「天地の開闢(ひら)くるより始めて、」と、『古事記』の書き出しが「天地開闢」であることを示す記述があります。そのことについて考察します。
[原文1-1](再掲)
天地初發之時、
[書き下し1-1](再掲)
天地(あめつち)初めて発(あら)はしし時、
[註釈1-1-7]は前回です。こちら↓
第8回 天地開闢と天地創造(天地初発から天之御中主神まで⑧) - 『古事記』を読む
[註釈1-1-8]太安万侶の仕事
ここまでに、『日本書紀』の「天地開闢(かいびゃく)」の記述は、ほぼ漢籍からの丸写しを組み合わせたものであって中華の陰陽思想に基づくものであり、『古事記』の「天地初発」を同様のものと考えることは避けるべきであるし、当時の用字法に照らし合わせても「初発」を「ハジメテヒラクル / ヒラケシ」と訓むことはできないという本居宣長以来の考えを示しました。
しかしながら、『古事記』の編纂者である太安万侶は、『古事記』の「序文」に、「天地の開闢(ひら)くるより始めて、」と、『古事記』の書き出しが「天地開闢」であることを示す記述を行っています。なぜ、後世の『古事記』研究者は、太安万侶の記述を否定することができるのでしょうか。
神野志隆光博士は、『古事記』「序文」が、『古事記』本文と異なり正調漢文で書かれていることから、「天地初発」という漢籍にない表現が正調漢文にそぐわないために、太安万侶が『日本書紀』の論理で「天地初発」を翻訳したためで、「序文」と「本文」とがじかに対応できないものになったと説明しています*1。
「天地初発」は『古事記』オリジナルの発想なので、漢文に馴染まないのはそのとおりですが、だからといってそれが太安万侶が『日本書紀』の論理で「天地初発」を翻訳した理由だとするには、いささか論拠が足りないような気がします。
『古事記』「序文」は、天皇(元明天皇)への上表文に機能を持っていますから、間違えのないよう意識して書かれているはずです。正調漢文にそぐわないからと言って、異なる内容に書き換える動機にまでなるものでしょうか。
私も、結論としては神野志博士の主張を支持する者ですが、上記の観点から、太安万侶が『日本書紀』の論理で「天地初発」を翻訳した理由は、次のようなものである可能性があると考えます。
まず、太安万侶が『古事記』の内容を十分分かっておらず、「天地」のはじまりについて「天地開闢(かいびゃく)」以外の着想を知らなかったというものです。『古事記』の編纂者である太安万侶が『古事記』の内容を理解していないことなどありうるのかと思われるかもしれませんが、『古事記』成立の経緯を追うとそう考えられるのです。
そして、元明天皇も上表の前には当然に『古事記』の内容を知らず、しかし同時代に編纂作業の進められていた『日本書紀』の内容は知っていたがゆえに、この序文を受け入れたのではないでしょうか。
こう考える根拠は、『古事記』の成立事情にあります。『古事記』の成立事情については、当の太安万侶自身がが「序文」に記しています。
『古事記』「序文」は、次の三部構成になっています。
①『古事記』全体のあらまし
②『古事記』制作の発端
③『古事記』完成に至る経緯、記述法の解説。各巻の範囲と上表文
②には、天武天皇(第40代天皇:在位673-686年)が、誤りを含んだ複数の中から正しい帝紀を選び、旧辞を検討して修正し、正しい一書を編纂しようと欲し、稗田阿礼に命じて誦習させたが、天皇が崩御してしまったために完成に至らなかったことが書かれています。
③には、元明天皇(第43代天皇:在位707-715年で、天武天皇の姪であり義理の娘)が、太安万侶に稗田阿礼が誦習した旧辞を書き記して書物にして献上せよとの詔を下したことが書かれています。
ここから分かることは、太安万侶は最終編纂者ではありますが、『古事記』の編纂に最初から関わっていたわけではないということです。そして、②で書かれている天武天皇の時代には、『古事記』はほぼ完成しており、稗田阿礼はそれを記憶していて、太安万侶はそれを苦心して忠実に書き記しただけだったということが、西條勉博士や靑木和夫氏によって指摘されています*2。
西條勉博士は、当時の用字法から「誦習」と書かれている以上、『国文学論輯』のは完全なものであることを明らかにしています。不完全なものは誦むに値しないからです*3。天武天皇は、誤りのある複数のテキストから、誤りのない『古事記』の編纂を欲し、完成を見る前に崩御しています。天武天皇存命中には書き起こすまでには至らないまでも『古事記』の物語は完成していた~年代記のいくばくかは残っていた可能性はあるが~のです。稗田阿礼が誦習したのは、誤りを含んだ原テキストではなく、天武天皇のお墨付きを得た誤りのない原『古事記』だったのです。
高度に能力のあるプロフェッショナルの同時通訳者が、必ずしも話者の発言内容を完璧に理解していないのと同様に、高度な書記技術を持った太安万侶が、『古事記』の内容に理解の及ばない点があることは不自然ではありません。
ましてや、『日本書紀』が編纂に着手されたのは、681年と言われており*4、太安万侶がその仕事の成果をある程度ふまえて『古事記』の「序文」を作成した可能性はかなり高いものと思われます。
そして、海外向けに正調漢文で書かれたある意味、外交文書の役割をも担う『日本書紀』と異なり、国内の特定の集団のみの閲覧を想定している『古事記』は、秘伝の意味合いを持っていた可能性もありうると思われます。靑木氏は、元明天皇が『古事記』制作の再開を命じたのは、今後天皇となりうる者の教育用の目的だったと指摘しています*5。その目的がゆえに『古事記』は、合議制の産物である『日本書紀』とは別に、完成が急がれる必要があったのです。
また、太安万侶はそのような大役を命じられるほどの、書記のプロです。だからがゆえに、「アメツチハジメテアラハシシトキ」と耳で聞いていながら、文字から得た知識である、時の政府の公式見解であるところの開闢(かいびゃく)という解釈に引きずられてしまった可能性もあるのではないでしょうか。