『古事記』を読む

文學と逃げず左右思想を持ち込まずスピに走らず学問的蓄積を飛び越えず内在する論理を信じ通説の否定をためらわず

第8回 天地開闢と天地創造(天地初発から天之御中主神まで⑧)

[今回の内容]『古事記』の「天地初発」を、『日本書紀』の「天地開闢」や『旧約聖書』「天地創造」の考え方に比較します。

 

[原文1-1](再掲)

天地初發之時、

 

[書き下し1-1](再掲)

天地(あめつち)初めて発(あら)はしし時、

 

[註解1-1-6]は前回です。こちら↓

第7回 天地開闢の由来(天地初発から天之御中主神まで⑦) - 『古事記』を読む

 

[註解1-1-7]天地開闢天地創造

 「天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時、」との訓みは、「ヒラク」前に「閉じた」状態であったことを前提とする表現であるため、それは「天地開闢(かいびゃく)」の思想であり、また、当時の用字法からも妥当とは言えないと書きました。

 ただし、「閉じた」状態を前提としない「ヒラク」もあります。「景色が急にひらかれた」の「ヒラク」です。この意味合いならば、「天地開闢(かいびゃく)」の思想とは異なるようにも思えます。

 しかし、この解釈にも問題があります。なぜなら、この意味合いでの「天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時、」は、「天地初発」の情景描写になりますが、その情景を見ている存在が前提とされてくるからです。

 

 「景色が急にひらかれた」は、霞などがかかっていて目の前がよく見えなかったものが、急に霞などが晴れて景色が突然現れたことを示します。この場合、「景色」は何も変わらず、「景色」を見ている人の認知が変わっただけです。

 つまり、「景色が急にひらかれた」という情景が成立するためには、「景色」の他に「霞など」と「それを観察している人間」という存在が必要なのです。

 この意味合いで「天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時、」を解釈すれば、そこには天地以外の存在を設定することになります。これは絶対者の視点です。これでは「天地初発」は、「天地開闢(かいびゃく)」を通り越して、旧約聖書の「天地創造」になってしまいます。

 

 むろん、『古事記』には天地創造の絶対者は登場してきません。なにしろ書き出しが「天地初発」です。「天地」以前には何も登場する余地がないのです。『古事記』は稗田阿礼が誦んだものを太安万侶が書き記したものです。『日本書紀』のように最初から書物として書かれたものではありません。最後に書物に固定された音声が『古事記』です。声は時間を遡航しません。「一書に曰く」と類伝が並列され、それらと比較対象しながら本文を読むことが前提とされた『日本書紀』や、the BOOK(書物の中の書物)という異名を持つ『聖書』とは、『古事記』は性質がまったく異なり、頭から順に読み進めて理解できない記述はありえないのです。

 

 では、「天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時、」を観察している存在を、絶対者ではなく、シャーマン的な人間としたらどうでしょうか。例えば、仮に稗田阿礼がシャーマンだったとして、「天地初発の時」に意識を飛ばしてその情景を見ているとします。

 シャーマンの限界は、たとえ意識を別の時空に飛ばしたとしても、そこでの体験が生身の五感の制約を逃れられないことです。「まるで見てきたように語る」場合、それは視覚を超えてはいません。夢を見ている場合、物理現象として角膜を光が透過し網膜に何かが写っているわけではありませんが、そのように認知していなければ夢を見たことにはなりません。漆黒の闇の夢を見るにも、漆黒の闇を漆黒の闇と認知させる光あるものの認知が前後にセットになっていなければ見る夢にはなりえません。夢で声がしたとか音が鳴った夢だったとなるだけです。夢を見たという比喩表現は可能ですが、正確には夢で聞いたという体験になります。

 つまり、シャーマン的存在が「天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時、」を観察したとする場合、天地を見えなくさせている闇の存在と、それを消す光の存在が必要になってくるのです。これでは、やはり「天地創造」になってしまいます。

 『古事記』に書かれていないものを『古事記』に見るのは、『古事記』から二次創作を生み出していることになります。『古事記』の行間を読むにしても、それは『古事記』に書かれているもののみから論理的に読む以上であってはならないのです。

 

 さて、『日本書紀』の「天地開闢」は宇宙始まりをカオス(渾沌)としていますが、この世界観は『古事記』ではなく『聖書』に共通します。『旧約聖書』の「天地創造」では、神は最初に渾沌とした地を、次に天を創ったことになっているからです。

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、?光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。

 (新共同訳聖書「創世記」)

 

 天と地との関係では、『日本書紀』「天地開闢」の発想は、『古事記』「天地初発」よりもむしろ『旧約聖書』「天地創造」の方に似ています。『古事記』「天地初発」の発想は、他に類がないものだと言えるでしょう。